慎独
すべてがネットにつながっていると言うけど、すべてではない。ウェブ上に全部あると言うけど、全部ではない。ほんの最近の歴史のことだけしかない。少しの過去事例で、少しの未来予測しかしきれない。
一人に慣れよう。静けさに慣れよう。おこもりに慣れよう。 今夜の室温30℃
見えているものが錯覚だとしたら、聞こえていることも錯覚で、まして味わいも匂いもニセモノばかり。この世に真に確実なものなど本当にあるのだろうか。 この季節、すでに寝苦しい。
いったい、この身体はどうなってしまうんだろう。この家庭はどうなってしまうんだろう。この地域はどうなってしまうんだろう。この国はどうなってしまうんだろう。この世界はどうなってしまうんだろう。この宇宙はどうなってしまうんだろう。いや、どうにか…
人ごみの雑踏の中に紛れて、誰とも交わらず、何も語らず、静かに暮らしていく。
坪田譲治生家跡周辺の現地研修会に参加する。 食べること、眠ること、体温調節、排泄、預金の残高、人づきあい、と生きていることは煩わしいことばかり。楽しめないよぉ。ヒッチャカメッチャカで。
寝たきり状態になるのも、そう遠くはないのかもしれない。準備しなくては。覚悟しなくては。心穏やかでいたいものだ。
AIが、個人の嗜好を作り出している。ニュースの選別も。見えないものはまるでなかったかのように。怖いことだ。
人は制約のある中で生きている。生きづらさを感じるのは当然のこと。楽しみを見つけていくしかない。他人を恨むまい、羨むまい。
何が効率的なのか、どうなれば機能的に優れているのか。価値的な加減さがわからない。
会議では、そのときになって「あ、それから」ではなく、事前に検討項目を出しておいて、それに従って議論してもらいたいな。
読みやすい本かどうかは、実際に読み進めてみなくてはわからない。興味の湧きそうな本かどうかは、現物を見てみなくては判断できない。題名だけ、目次だけでもわからないものだ。
風呂場のニオイが気になる。台所にまで来ている。 コンビニ食に飽きて外食が多くなると、食費額が多くなり、体重も増加傾向にある。少量少額の外食はないものかなあ。
4月は、なんて支払いの多い時期なのだろう。 値段が高くて旨いのは当たり前だが、安くてそこそこ旨いのを求めたい。貧しくとも舌は肥えたものでありたい。 やはり、花粉症なのか。花束をもらったからか。
100万馬力だとか、東京ドーム何個分だとか、経済効果予測数値だとか、百千万億倍の用心だとか、その数感覚がわからない。 失業保険給付を受けるの、受けないの。本当に年金支給に影響ないのだろうか。 落葉掃除でくたびれる。
好き嫌いの拒否ではなく、「今はいらない」「そんなに多くはいらない」というだけのこと。 ガソリン、図書館、食料品購入、などへ。
zoomとかYou Tubeではなく、会議や講演は実地で聴きたいものだ。
春はまだ遠い。 もはや食材の形をとどめているように見えても、実のところどんな養分があるのか怪しいものだ。
ツイてない一日だった。こんな時こそ用心しなくちゃ。
欲しい情報は、多くの無用な情報の間に隠れている。人生の多くの時間は、無益なもので溢れている。だからといって、無意味な訳ではない。
日々の生活の為にすることが多すぎる。もっとシンプルに生きたい。 意味のある無駄遣いになっていない。
科学的に正しいことって、いつか変わってしまうんですよね。不変と信じるに足ることなどあるのだろうか。
書かないから書けなくなったのか、書けないから書かなくなったのか。どちらにしろ、まともに字を書くことができなくなった。 顔面が引きつるような感覚に。
薬飲まなきゃいけないし、クリーム塗らなきゃいけないし、目薬ささなきゃいけないし、服着替えなきゃいけないし、手を洗わなきゃいけないし…。まったく、行ったり来たりで。
日々の食事、日々の整理、日々の運動、日々の会話、日々の学習。毎日をいかに楽しく過ごせるか、これからの日々。
ホコリにまみれたら、捨てるしかない。いつか使えるようになるものなどありはしない。残してため込むなど、無駄の極致だ。
頭痛、吐き気、歯痛。生きるとは、何と悩ましいことの連続か。六根清浄とは自然に与えられるものではなく、自らの人生に対する姿勢の問題。
高尚な美意識はないけれど、小さな喜びに満たされるような機会を求めたい。 フラつきがあるのだろうか。脳は大丈夫か。
このところ、深夜のバラバラな時間に目覚めることしきり。仕事に行っていてもこの調子なら、仕事に行かなくなったら、昼夜逆転の生活になってしまうのだろうか。深夜では、したいことも、できることもなく、何の用事も片付かない。
もうすぐ堂々と、高齢者割引や優待を受けることができるようになる。待ち遠しいことだ。